« ないも同然の計画? | メイン | ひと雨来ないかなー »

2008年6月28日

●末恐ろしくなってきた

子育て支援活動をしている施設の協議会の事務局長をボランティアでやってます。
去年、会の仕切り直しをしたこともあって、会にお金はなく、案内のファックス、会議レジュメの作成・印刷、各施設の情報収集など、事務局を担当している3人がすべて持ち出しでやってきました。

今年、改めて会を動かすのに、施設から会費を取ろうとすると「なんで?」という意見が出てきました。
曰く「去年会費なしでやってこれたんだから、なぜ今年から会費が必要なのかわからん」と。
さすがにカチンときて、一昨年までは会費を取ってそれを運営資金に充ててきた。去年は年度途中の仕切り直しだったため、すべて事務局個々人の持ち出しでやってきたんだ、ということを(もちろん穏便に)伝えたのですが、なかなかしっくりこないみたい。施設運営に費用がかかるのと同じように、施設の運営をとりまとめる協議会の運営にもそれなりのお金が必要なんだ、ということが間接的な関わりでしかないがゆえに伝わらないんですね。

子育て支援活動は子どもが成長するにつれて、保護者も代替わりをしますから、年月が経つにつれて熱意が薄れてきて、また施設や法律上の定義など、重要な話が伝えられなくなりつつあって、保護者は単なる「施設の利用者」の立場になってしまう。これはこの業界であれば半分常識的に言われていることなのですが、児童福祉法の趣旨のひとつである「地域が主体となった子育て活動を展開する」ことを伝えても糠に釘のような状態。
よく考えると、すでに今の親が地域ぐるみでの子育てをされていない。いくら親に、地域みんなで子どもたちの育ちを見守るんだ、と伝えても、自分に実感がなければわけわからんのは当然の話、なのかもしれません。

そこにきて行政も財政難から切りやすいところからお金を切っていっている。子育て支援事業のお金を切ってどうやってその自治体の子どもたちの豊かな育ちが保障できるでしょうか。また明確な子育て支援のビジョンがない。厚生労働省に「無理やり」作らされた次世代育成計画も簡単にコンサルにポンと投げてしまうような自治体に、心豊かな子どもが育つ土壌があるはずはありません。

それだけ行政の政策立案能力が衰えている(背景には地方分権といいながら実は中央集権型になりつつある官僚の姿勢が見え隠れするのですが)のと、そこに住む大人の未熟さ。新しい自治の形なんてみえっこありません。

こりゃもう頭打って気づいてもらうしかないか?とまで内輪の話は出たのですが、こういう活動はいったんぽしゃると立て直すパワーはとてつもなく大きいので、なるたけ親世代にもわかりやすいように事業を組み立て直して提示するしかないか、という結論に至りました。

そうか、「行間」を読んでくれるだけの余裕がないのか、と思わざるを得ないのがなんだか悲しい。